【徹底解説】アルフォンス・ミュシャの生涯とプラハの観光スポット
・ミュシャが好き!プラハのミュシャスポットを知りたい
・プラハのミュシャ作品の解説が欲しい!
・プラハのフリータイムにおすすめの観光スポットを知りたい
画家のアルフォンス・ミュシャは現在のチェコ共和国の出身です。ミュシャといえば美しい女性を中心とした優美なアートが特徴で、日本人には特に人気がありますね。ところがプラハにあるミュシャの作品はちょっと雰囲気が異なるんです!
これを知らずにプラハに行くと「え?これがミュシャ!?」となってしまいます。
そこでプラハにあるミュシャの作品を詳しく解説します。
この記事を最後まで読むと、プラハのミュシャスポットを100%楽しめますよ! ぜひ旅の下調べに活用してくださいね
プラハのミュシャの絵を見て驚いたのは私の体験談です。
暗い雰囲気の男性の絵が多くて、「え、これがミュシャ?!なんか暗い」と感じました。
後にミュシャの故郷への愛などを知り、これを知ってからプラハに行けばよかった、と後悔しました。
ミュシャの生涯と人物像
ミュシャ ― アールヌーボーを代表するデザイナー
アルフォンス・ミュシャは1900年前後に主にパリで活躍したデザイナー・画家です。
「ミュシャ」というのはフランス語の発音で、チェコ語では「ムハ」という発音になります。
そのためガイドブックによっては「ムハ」と書いてることがあります。
ミュシャは美しい女性を中心に、花や星などをイメージした絵を描いていました。曲線を用いた優美なデザインが特徴で、生涯にたくさんのポスターや装飾パネルなどを描きました。
1900年前後に流行した芸術様式で、「新しい芸術」を意味しています。
花や植物、昆虫をモチーフにして、曲線を組み合わせた優美なデザインが多いです。
当時としては新しい素材であったガラスや鉄を前面に使用した構築物などがデザインされました。
ミュシャ以外では、ガラス工芸のエミール・ガレやドーム兄弟などが有名です。
ミュシャの誕生からフランスでブレイクするまで
1860年 チェコのイヴァンチツェでミュシャが誕生
チェコは当時、オーストリア帝国の一部として支配されていました。モラヴィア地方のイヴァンチツェでミュシャは誕生しました。ちなみに日本人で言えば森鴎外や夏目漱石と歳が近いですね。
ミュシャは幼いころから才能豊かで、絵を描くことも好きでしたが聖歌隊のメンバーとしても歌ってもいました。
10代のころからは舞台装置の工房で働き、20代で肖像画を描いて生計を立てていました。
27歳でパリの美術学校に入学しましたが、資金不足で中退。その後は雑誌の挿絵を描いていましたが、稼ぎが少なく苦しい生活を送っていました。
1894年 34歳の時にパリでブレイク
大女優サラ・ベルナールの舞台「ジスモンダ」のポスターをたまたまミュシャが描くことになりました。
クリスマス休暇で印刷所の皆がお休みの中、納期まで1週間という短納期で持ち込まれた依頼でした。
実はミュシャは今までにポスターは書いたことがありませんでした。
しかし、ミュシャは劇場装飾を手掛けた経験があり、また舞台ジスモンダもちょうど見たばかりで、すぐにポスターのイメージができたそうです。
このポスターが大好評となり、サラ・ベルナールと6年間の専属契約を結びました。
その後は、「椿姫」「トスカ」など舞台のポスターから、サラの衣装や舞台背景までミュシャが描いていました。
どのポスターも大人気で街に貼られたポスターが盗まれることも多々あったようです。
パリで人気デザイナーとして活躍
サラのポスターで有名になったミュシャは売れっ子デザイナーになりました。タバコ、香水、お酒、クッキーの箱などのデザインや、宝飾品のデザインから店の内装まで様々な依頼が舞い込みました。広告デザイナーですので、顧客のリクエストに合わせて、売れる絵を描いていた時代です。描かれている女性は色白・面長で鼻が高い人が多いですね。モチーフもバラやユリなど優雅であでやかな雰囲気が多くなっています。
その後はチェコに戻って歴史画家として活躍
1900年に開催されたパリ万博で、ミュシャはボスニア・ヘルツェゴビナ館の内装を手掛けました。
この際にミュシャはバルカン半島を旅し、スラヴ民族の歴史や現状を調査しました。
そこでスラヴ民族が他民族から支配されてきた歴史や現状を見て、非常に悲しみ悩みました。
そして、芸術を通して民族の団結と独立をチェコの人々に鼓舞したいと願うようになりました。
そのためミュシャが故郷で描いた絵はチェコの歴史上の人物をテーマに、力強い印象の絵が多くなっています。
モデルの女性もチェコ人になり、顔が丸くて肌の色も褐色っぽくなっています。花のモチーフも素朴な草木になっています。
ミュシャは故郷のために、チェコ(当時はチェコスロバキア)の公共施設の内装や紙幣・切手などのデザインを格安料金で行っています。
ミュシャの作品には「スラヴ」の表現がたくさん登場しますが、チェコとの違いに混乱しますよね。
簡単に書くとこんな感じになります。
・スラヴ民族という民族はなく、「スラヴ人」とはスラヴ語を話す複数民族を総称している
・スラヴ語を話す人はロシアから西はチェコ、南はバルカン半島マケドニアまで幅広い
・チェコは「西スラヴ人」の一部
スラヴ人は大変人口が多く、国や宗教が異なります。そのためスラヴ人同士での戦争も多く発生しました。
19世紀にはチェコ周辺ではドイツ人とチェコ人が激しく対立していました。「汎スラヴ主義」という「スラヴ人みんなで団結してドイツ人に対抗しよう!」という思想があり、ミュシャは大きな影響を受けています。そのためミュシャの絵には「スラヴ民族」が多く描かれています。
プラハにはミュシャの絵やデザインがいくつかありますが、その中でもおすすめの3か所を紹介します。
すべてプラハの旧市街にあり、歩いて行ける距離ですので、団体ツアー旅行のフリータイムにも行けそうな場所です。
ここは絶対見てほしい!ミュシャがデザインしたステンドグラス
プラハ城内【聖ヴィート大聖堂】にあるステンドグラスの内容を解説
聖ヴィート大聖堂はプラハ城内にあり、プラハで最大かつ最重要の教会です。この大聖堂にはミュシャがデザインしたステンドグラスがあります。
描かれているのは、聖キュリロスと聖メトディウスの生涯です。この二人は兄弟で、東欧諸国にキリスト教を布教した人物です。日本で言うとザビエルのような存在ですね。
9世紀、プラハを含むチェコの西半分がボヘミア公国、東がモラヴィア公国であった時代のお話です。
このステンドグラスは「スラヴィア保険銀行」がスポンサーとなり多額の寄付をしました。その感謝を込めて中央下部には「BANKA SLAVIE」と社名の記載があります。
ため息が出るほど美しいステンドグラスです。もう一度見に行きたい!
キリスト教宣教者【聖キュリロス】と【聖メトディウス】兄弟
9世紀にビザンツ帝国から派遣され、ボヘミアにキリスト教(正教会)を布教した神学者で宣教師の兄弟です。東欧全域にキリル文字とキリスト教を広め「スラヴ人への使徒」と呼ばれています。
当時のスラヴ語にはまだ文字が存在していませんでした。キュリロスはキリル文字を考案して聖書をスラヴ語に翻訳を行いました。
ギリシャ正教会からきた二人は、お隣のドイツ・ローマカトリック教会と対立し投獄されたりと苦しい人生でした。最後はブルガリア帝国で神学校を設立しました。
チェコ語ではキュリロスは「ツィリル」、メトディウスは「メトジェイ」と読みます。
メトディウスによって洗礼されるボジヴォイ1世
キュリロス(左)とメトディウス(右)によって洗礼を受けている中央の男性はボヘミア公国のボジヴォイ1世です。
ボジヴォイ1世と公妃リュドミラはチェコで最初にキリスト教に改宗した君主です。
当時のボヘミアはドイツやハンガリーに挟まれ政治的に不安のある状態でした。そこでボジヴォイ1世とヴァーツラフ1世はボヘミアのキリスト教化を進め、神聖ローマ帝国の一部となることでボヘミアを安定させました。
チェコの守護聖人【聖ヴァーツラフ】と【聖リュドミラ】
赤い衣装の少年はヴァーツラフ1世、左にいるのが先ほども登場したリュドミラです。リュドミラはボジヴォイ1世の妃で、ヴァーツラフは彼らの孫です。
リュドミラはヴァーツラフをキリスト教徒として育てました。またヴァーツラフの幼少期は摂政として統治していましたが、キリスト教化に反対する派閥によって暗殺され、殉職者として列聖されました。
ヴァーツラフはボヘミアのキリスト教化をすすめ、この聖ヴィート大聖堂の建造をはじめました。民衆には大変慕われていた君主でしたが、ヴァーツラフもまた暗殺されました。
クリスマスキャロルの「よい王様ウェンセスラス」はこのヴァーツラフがモデルになっています。
【イエス・キリスト】とスラヴの【女神スラヴィア】
このステンドグラスの一番上にいるのはイエス・キリスト、その下にいる女性は、チェコの女神スラヴィアです。
このスラヴィアですが、なんとミュシャが創作したオリジナルキャラで、ミュシャのほかの作品にも登場します。ミュシャの掲げるスラヴの理想像を具現化したのだとか・・・
聖ヴィート大聖堂へのアクセス
聖ヴィート大聖堂はプラハ城エリア内にあり、大聖堂の入り口付近までは無料で入ることができます。ミュシャのステンドグラスも遠目に見ることができますが、正面から見るためには入場チケットが必要です。
プラハ城周遊チケット(Prague Castle-Circuit) ー 250CZK(チェココルナ)
2023年現在で1500円くらいですね。
このチケットは大聖堂以外にも旧王宮、聖イジー教会、黄金小道なども入場できる周遊チケットです。
大聖堂のみの単体チケットはありません。
また、大聖堂の展望塔に昇るには150CZKのチケットが別途必要です。
プラハ城は旧市内から徒歩圏内にありますが、丘の上にあり坂・階段がたくさんあります。
トラムでプラハ城の北側の駅からアクセスすると下り坂になるのでおすすめです。
市民会館(オベツニドゥーム)の市長の間
プラハの旧市街「共和国広場」にプラハ最後のアール・ヌーヴォー建築「市民会館」があります。ここの市長の間をミュシャがデザインしました。
ここの絵は「おじさん」多めで、がっかりする方も(私ですが・・・)
チェコの歴史が詰まった部屋なので、解説と合わせて楽しんでください!
市長の間の天井【スラヴの連帯】
市長の間の天井には「スラヴの連帯」というタイトルの絵が描かれています。中央の鷹は「ソコル」と呼ばれ、勇敢を意味しています。チェコには「ソコル」という名前の民族再生運動が起こっていたことから鷹は民族運動の象徴となっていました。
鷹の周囲に描かれているのは、スラヴ諸民族が協力している絵です。ミュシャは円を「連帯」「団結」のモチーフとして描くことが多くあり、この図案も諸民族の団結を意味しています。
壁面に描かれたチェコの偉人たち
スラヴの連帯の周りには、
チェコの歴史上の人物 + 後ろにはスラヴ民族の特性を擬人化したキャラクター
が描かれています。
ヤン・フス
15世紀に宗教改革を訴え火刑に処された人物です。教会の腐敗を批判し、プロテスタントの先駆けとなりました。民族運動のリーダーとしてチェコで英雄とされています。後ろにいるのは、擬人化された「正義」です。
ミュシャって擬人化の先駆けなんじゃないでしょうか。現代ではよく見る気がしますが、アートでは珍しい気がします。
エリシュカ
ボヘミア王国プシェミスル朝の王女で、子供はおそらく息子のカール4世と思われます。後ろに描かれているのは「親の知恵」を擬人化したもの。
カール4世は神聖ローマ帝国の皇帝となり、プラハを大きく発展させました。
ところで、プラハ市観光協会のサイトには、この女性は「聖リュドミラ」と書かれていました。ステンドグラスにも登場した、チェコにキリスト教を広めた人ですね。もしこちらが正しければ、この子供はヴァーツラフ1世なのでしょうかね?
ヤン・ジシュカ
後ろに描かれているのは「闘志」です。ヤン・フス亡き後、フスの信奉者(フス派)を引き連れてローマ・カトリック教会に対してフス戦争を起こした人物です。
フス派は貴族や庶民が団結して構成された国民軍でした。ジシュカは最新のマスケット銃や戦車を揃え、ローマ・カトリックの十字軍を破りました。
ドイツのルターより100年早く起こった宗教戦争でした。
ヤン・アーモス・コメンスキー
17世紀に学校教育の仕組みと教科書を提案しました。日本の学校でも同一年齢・同時入学ですが、これもコメンスキーの構想が基になっています。教育によって知識を得ることにより、平和が実現できると考えました。現代教育の礎となったすごい人ですね。
後ろにいるのは「誠実」です。
彼はプロテスタントでしたが、非カトリック教徒追放令により、チェコから亡命し最後はオランダで亡くなりました。
ペルンシュテインのヴォイチェフ
描かれているのは「強さ」です。
彼はミュシャの出身、モラヴィア地方の大領主です。1490年生まれ、領地をどんどん拡大し、城や街を建築してモラヴィアを大きく発展させました。
ヴォイチェフが誕生したモラフスキー・クルムロフ城では、現在ミュシャのスラヴ叙事詩が展示されています。
ホツコ人
後ろに描かれているのは「警戒」です。ホツコ人はボヘミアの南西部国境を守備していた民族です。
ドヴェーのヤン・ロハーチ
後ろに描かれているのは「不屈」です。ヤン・ロハーチはヤン・ジシュカ率いるフス戦争を参加し、敗戦後も最後まで戦った人です。
ポジェブラトのイジー
後ろに描かれているのは「独立」です。イジーはフス戦争後のフス派の指導者でした。その後はボヘミア王として即位。イジー王は穏健派で、すべてのキリスト教国家が同盟を組むことで平和を実現することを提案しましたが、ローマ教皇の反対に合い、道半ばで亡くなりました。
壁に描かれているのはチェコの過去・未来・現在
壁に描かれている絵はチェコの過去・未来・現在を表しています。それぞれの絵の下には「侮辱と苦しみーそれでも祖国は復活する」「自由の力・忠誠の愛」「国の聖なる母の息子よ、愛と情熱を受け入れてください」と書かれています。
この部屋は壁だけではなく、カーテンやベンチまですべてミュシャがデザインしました。
カーテンにハート模様が描かれていて可愛らしいです。これはチェコの国樹「菩提樹」の葉ですよ。ミュシャの国への愛が詰まったお部屋です。ぜひ隅々までご覧になってください。
レストランにもミュシャの絵が
市民会館のレストランのメニューなどにもミュシャの絵が利用されていました。
レストランやカフェは予約なしでも利用できますので、ぜひ立ち寄ってみてくださいね。
市民会館の概要
1911年に建設された市民会館はチェコ・アール・ヌーヴォーの結晶と言われる壮麗な建物です。内部にはカフェ、レストラン、バーや多数のセレモニーホール、音楽ホール「スメタナ・ホール」などがあります。
建物や内装が素晴らしいこともあるのですが、この建物はチェコの歴史的にも重要な建物です。1918年にはこの場所で、オーストリア・ハンガリー帝国から独立を宣言し、チェコスロバキアが誕生した場所です。
市民会館はプラハ本駅から徒歩15分、共和国広場の前にあります。メトロ「共和国広場」駅からは徒歩2分です。
市長の間を見るにはガイドツアーに参加する必要があり、料金は大人一人が290CZK(チェココルナ)です。2023年現在では1900円くらいですね。レストランやカフェなどは入場料は無料で入場できますよ。
ガイドツアーは英語またはチェコ語ですが、日本語のガイド冊子がもらえます。
夏のバケーションシーズンや週末には混雑すると当日券が売り切れますので、事前にチケットを購入しておくことをお勧めします。事前購入およびガイドツアーの開催時刻は公式サイトからご覧くださいね。
パリ時代の作品がたくさん【ミュシャ美術館】
プラハ本駅から徒歩10分の場所にミュシャ財団が運営するミュシャ美術館があります。
パリ時代に描いたポスターや装飾パネルなどの作品がたくさん展示されています。ミュシャが使用していた家具やデッサンしている様子の写真などが展示されています。
美術館は小規模ですが、ミュージアムショップは充実していると感じました。カレンダーやしおりなどお手軽に買える物がたくさん販売されています。
内部は写真撮影禁止なので、外観の写真しかご紹介できないのが残念です。
入場料は大人一人が350CZK(チェココルナ)で、2023年現在では2200円くらいです。入場料に比べて内容は少ない気がするのは円安だからでしょうか・・・
営業時間は10時から18時です。
2026年からプラハで展示予定 超大作「スラヴ叙事詩」
スラヴ民族復興を願って描いた20枚の大作
スラヴ叙事詩は全20作品で構成されています。まず目が行くのはその大きさです!それぞれサイズが大きいのです。そのため大変迫力があり、圧倒されます。大きいものだと横8m縦6mの作品もあります。一体どうやって運搬するのだろうか・・・と感じました。
内容はスラヴ民族の歴史と神話を交えた絵になっています。当時のチェコはオーストリア・ハンガリー帝国に統治されてましたが、独立の機運が高まっていた時期でした。芸術を通して民族の団結を強めようと、スラヴ叙事詩の構想を始めたのはミュシャが40歳の時でした。
アメリカやヨーロッパで資金を集め、ミュシャが50歳の時に作成を始めました。18年かけて描いた20作でしたがその制作中にオーストリア帝国が崩壊し、チェコは「チェコスロバキア」として独立を成し遂げました。
独立後のチェコからは、ミュシャの絵は古臭い内容に感じられたのでしょう。また政治的な問題もあり、スラヴ叙事詩は大きな注目を集めることはありませんでした。
現在はチェコの「モラフスキー・クルムロフ城」で展示中
現在スラヴ叙事詩はモラフスキー・クルムロフ城内で展示されています。
モラフスキー・クルムロフはプラハから南西に200kmに位置しており、電車で4時間近くかかります。
これは旅行者にはちょっとアクセスしづらいですよね・・・
プラハの旧市街に新商業施設「サヴァラン」を建設中
2026年にプラハで開業する予定の商業施設「サヴァラン」でスラヴ叙事詩が展示されることが決まりました。
この施設は旧市街の中心地の再開発プロジェクトで、オフィスや商業施設などが複合された巨大な施設です。
場所はミュシャ美術館の目の前で、プラハ本駅の前です。
これが完成すれば、聖ヴィート大聖堂からミュシャ美術館、スラヴ叙事詩を1日で見回ることができます。
私もこの施設が完成したら、再度プラハに行きたいと考えています。
まとめ
いかがでしたか?プラハのミュシャスポット3か所をご紹介しました。
- ため息が出る美しさ!「聖ヴィート大聖堂のステンドグラス」
- 壁画からカーテンまですべてミュシャがデザイン「市民会館の市長の間」
- ミュシャのパリ時代の作品がたくさん「ミュシャ美術館」
プラハに行かれた際にはぜひ立ち寄ってみてくださいね。